映画やテレビドラマなどの現場で、撮影監督をする仕事が最近は多いですね。撮影監督というのは、撮影に関してすべてコントロールする立場です。監督は監督だけ、カメラマンはカメラマンだけをやる、というのがこの業界は多いのですが、僕は映画監督を志して最初にこの業界に入ったこともあり、劇場公開された監督作品のほか、短編映画、音楽PVの制作も行っています。
撮影監督の仕事は、映画監督とタッグを組んでやることが多く、監督からの依頼が多いです。監督もいろいろな方がいて、『南くんの恋人』という連続ドラマを撮影した時は、台本も分厚くて、絵コンテ通りにキッチリ撮影していきました。このドラマの場合、CG合成のカットもあるので、細かくカットを割っておく必要がありました。かと思えば、「カット割りは全くわからないので、お願いします」という監督もいます。その場合は、「カメラで追いかけられるのはここまで、ここからは切り返しましょう」といった段取りまで含めて提案することもあります。どちらにせよ、素早く監督の頭の中のイメージを、具現化することが一番です。
段取り的な話でいうと、ひとつのシーンを撮影するときに、複数台のカメラを使って、画角をすべてコントロール、モニターを見ながら指示して1回の撮影で終わらせる方法と、マスターショット(引いた場所から1シーンを途中でカットせずに撮影すること)をまず撮影して、そのあと、顔に寄ったカットなどを何回かに分けて撮影する方法とあるのですが、僕は後者ですべてをひとりで撮影してしまうことが多いですね。その方が1カメでじっくり深くまで入り込んで、肩越しのカットなど狙いたい絵を撮りやすいのです。
また、一般的に、監督同士が同じ現場にいることはありえなくて、別の監督のやり方を現場で見るなんてことは、師弟関係でもない限り難しいんですが、僕が撮影で入っている時には、その監督のやり方を参考に、自分だったら、どうするだろう…?とか考えてみたりします。撮影をしながらでも、映像制作の幅を広げる経験はたくさんできます。
そういった仕事をするなかで、長年の夢でもある監督、脚本、撮影、編集と全部自分で行った劇場長編作品をやりたいという思いが最近強く出てきました。今年で東京に来て10年ですが、今までの経験値を出し切れるものをいつかつくれたらいいなと思っています。
SFやホラー映画の世界観が好きで、学生時代にたくさん映画を見ました。映像を通して表現することの楽しさや、表現するときに必要な感性や情緒みたいなものを大学時代にはじっくり育めた気がします。
成安造形大学を卒業して、映画監督という夢を考えたときに、自分に信念さえあれば、拠点はどこでもいい、それが地方都市であっても、自分が作品制作に対するモチベーションを持ち続ければ大丈夫だと思って、地元である金沢に戻って就職しました。
就職先は、テレビやCM、企業VP(企業を紹介する映像や商品の販促映像)、ブライダルに関わる制作を行っている映像制作会社でした。ディレクターを志望で入社しましたが、まずは撮影部へ配属されました。最初の仕事は、カメラマン助手。脚持ちという、いわゆる三脚を持ってカメラマンについてロケに行く仕事であったり、撮影している横からバッテリーライトを当てたり、機材車の運転もしていました。そのうち現場で簡単な照明を組んだりできるようになって、次にオーディオマン(音声)の仕事になります。ガンマイクやピンマイクの使い方などを学んで、現場で経験を積んでいく感じ。カメラマンはその先でした。
ロケというのは、例えば北陸三県のニュース映像の撮影、また能登や加賀、山城といった石川にたくさんある温泉に行くような旅番組などがありました。普段はロケに出ている事が多いのですが、週末には結婚式の撮影、ロケの無い日は社内で機材のメンテナンスや、機材の練習といった日々です。
山奥で撮影していた時、ふと「こんな山奥で三脚持って、俺なにやってんだろう」と思うこともありましたが、そうして3、4年経過してカメラを触るようになると、いろいろ見えてくることがあったんです。カメラマンって、映像全般のことをわかってないといけない。特に音声や照明の技術はもちろん、制作のいろんな段取りも撮影の現場に集約されている。「撮影は現場の根本なんだ」という最初の頃に先輩から聞いた言葉がつかめた気がして、カメラが面白くなってきました。あまり深くは考えていませんでしたが、カメラをやってれば、いろんなところで使えるのかなと。
そんななかで、大学時代に卒業制作でつくった映像作品が、卒業から数年を経て、とある映画祭で上位入賞になったんです。東京で映画祭などの関係者が集まる機会に参加することになり、自主制作の映画をつくっている人たちと知り合うことができました。僕自身、仕事をしていたカメラマンが最終目標ではなく、監督、演出への思いは変わってなかったですから、休みの日には自主作品の脚本を考えたりしていました。そのあと、就職して8年目ぐらいの時ですね。映画祭の時のつながりから、低予算ではありますが自費出版した小説を映画化するので監督をやってみないかというお話をいただいたんです。すぐに依頼を引き受け、原作を元に脚本を書き始めました。
半年ほど、金沢と東京の間でやり取りをしていましたが、だんだんテスト撮影が必要になるなど工程が東京中心になってきた時、会社を辞めて、東京へ引っ越すことにしました。やっぱり映画はプロデューサーにしろ役者にしろ、東京に集まっていて、金沢ではつながりができないと物理的な限界を感じていた末の一念発起でした。
2007年の1月に東京へ出てきて、その年の4月、台湾にて1カ月撮影をして翌年公開にこぎつけました。それが『アディクトの優劣感』という僕の劇場公開作としての監督デビュー作品です。低予算で監督も役者さんもまだ無名ですから、公開してくれる映画館を探すのもひと苦労でした。若者を描いた映画だったこともあり、クラブやライブハウスの近くにあった渋谷の映画館に持ちかけて、なんとか公開決定。そうは言っても、低予算で宣伝もあまりできず、集客は伸びませんでした。
映画制作のために東京へ出てきて怒涛の1年。映画の公開が終わったものの、なかなか次につながらなかったのも事実でした。そこで、金沢の制作会社で培ったカメラマンとしての技術を活かして、フリーのムービーカメラマンとして生計を立てることに。映画関係者とのつながりを増やしていきながら、映画とは直接関係の無い、企業VPやイベントの記録撮影、ブライダルビデオ、ミュージックビデオなど、フリーのムービーカメラマンとして仕事をやっていきました。企業VPでは、クライアントと直接やり取りできるチャンスがあれば、クライアントがやりたいことを台本化して、ドラマ仕立てに映像化することで技術を磨きました。
デビュー作から数年後、知人から紹介を受け、カメラマンを探している監督の依頼で『TOKYOてやんでぃ』という劇場公開作の撮影監督をさせていただきました。これが再び映画に携わるきっかけとなり、その後も劇場公開作品に続けて関わらせてもらえるように。撮影、映像制作の仕事も好きですし勉強になりますから、いつか長編映画を監督したいと思いつつ、今はしっかり力をつけておきたいですね。
ところで、僕自身は台本や脚本、絵コンテの書き方や、それを映像化する技術も完全な独学で、基本は現場で必死に身につけていったような感覚です。そんな僕が不思議なことに、2009年から『ビデオSALON』という映像専門の雑誌で、絵コンテから具体的な映像演出の手法を解説する連載を担当させてもらっています。きっかけは、デビュー作の『アディクトの優劣感』で使ったデジタルフォトメーションという手法だったのですが、大学の課題で映像の中に写真をスライドショーのように挟み込んでいく作品を制作していたものを、さらに進化させた人間コマ撮りアニメーションみたいな、ちょっと変わった方法で撮影していたんですが、そのことで取材を受けた縁からでした。
今思うと、撮影監督を志望する人は、下積み、助手から経験していくのが普通なんですよね。撮影助手のサードから始まって、セカンド、チーフを経て撮影監督になるんですが、僕の場合、テレビなどの映像制作から入ってるので、ちょっと違う。いきなり撮影監督としてやり続けられるのは、偶然もありますが、最初に監督やプロデューサーとうまく信頼関係をつくれたことが大きかったですね。テレビのいろんな現場で何でも撮影してきたことが良かったというのもあります。いろんな現場といえば、これは映画にはきっと関係ないかもしれませんが、旅番組で漁師さんと一緒に大海原に出て撮影とか、CMでウォータースライダーを滑走しながら水中カメラでモデルを撮影したり、飛んで来る打球を避けながら高校球児の紹介映像を撮ったり…。様々な経験を経て、今はどんな撮影でもできそうな感覚というか、ある種の自信を持ってるつもりです。
(インタビューは2017年5月に行われたものです)
1974年、石川生まれ。1997年、成安造形大学情報デザイン群(映像)卒業後、
金沢市の映像制作会社にカメラマンとして勤務。2007年独立。
『アディクトの優劣感』が初の劇場公開監督作品となる。
デジタル一眼レフカメラに動画機能が搭載されてからは、短篇映画、音楽PV等の制作に取り組む。
制作会社で培った技術と経験で、映像作品を多数制作。
また、若手クリエーターの為の技術セミナーなどの講師も勤める。
主な撮影監督作に、『便利屋エレジー』(2017年)、
テレビドラマ『南くんの恋人』(2015年)、『TOKYOてやんでぃ』(2012年)。
http://megalon-ai.com/